昭和五十四年九月四日 朝の御理解
御理解第六十六節 「人間は勝手なものである。いかなる知者も徳者も、生まれる時には日柄も何も言わずに出てきておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時には日柄も何も言わずに駆けっていぬる」
「いろはにほへとちりぬるを」という、いろはの歌の中からいつか御理解を頂いた事があるんですけれども、本当に「いろはにほへとちりぬるをよたれそつねならむ」、これをずうっと漢字で書くと素晴らしい御理解になりますね、最後のん、と言うとこ、最後は、ん、という事ですからね、いわゆる、ん、と一きばりあの世に、いわゆる駆けって去ぬる。人生の儚さ、一生の私共の様々な事があったのですけれども、その一生を儚く消えていくというか、いうならば、何にも残すものもなからなければ、持っていくものもないで終わっていく人達のま、哀れさと言ったようなものが、この歌の中に詠いこんであると言う。
もう、数年も前でしたけれども御理解頂いた事があります。信心させて頂く者はそういう、いうなら儚い世の中、人生を儚いものにせずに、いよいよ有り難いものに、いよいよ尊い人生を送りたい。教祖の神様は、そういう御自身一生を尊い御信心、御修行でおわられて、そして駆けって去ぬるのではなくて、それこそ「あ-心安し」という、お心の状態でお国替えになられたと。
昨日は、福岡の今度信徒会の大会がございました、その投げ足的な方達が数名お参りになりました。天王寺教会、それから片江教会、それからもう一つはやっぱ大阪の、ま結局一年前の、私の中近畿での講演を聞いて下さった方達ばっかりだったんですけども、一辺は九州に行ったら合楽に行ってみたい、合楽に行ってみたいと言うてま、見えたわけでございますけども、その中で一人、もう教会は五十年からの経歴を持っておる教会である。処が人が助からない、自分も、もう長年の信心なさって、何とか親先生に楽にもなってもらいたい、御用の一つでも、大きな御用の一つでもさせてもらいたい、と思うけれどもこう言う切つなる願いを、持っておるのだけれどもおかげが頂けない。
大体建築屋さんか何かだったらしいですけども、今それをやめられて何か指圧のような事を、まあ研究しておられる方らしいんです。そいで、まあ皆ないうならば、合楽の比礼に触れたいとか、まあ見てみたいと言うような事で見えておるんですから、まその比礼に触れてもらい、見て貰うで、まそれでいいんですけども、その方はその、どういう信心をさせて頂いたなら親先生に喜んで頂くような、または御用の一つでも出来るようなおかげが頂けるだろうか、と言うて問われますから、そんなら、も、合楽に見えたんですからね、合楽理念を勉強してね、いうならば御用は合楽理念をもってする他はない。と言うようなおかげを頂いて、なら一年前私が大阪へ行ってからこの方、御信者または教会で合楽理念をもとにして、ない命を助かったり、比礼たたなかった教会が比礼が輝くようになったりと、いう事実がある事を話させてもろうてね、合楽理念の勉強をなさいね。尋ねられなければ求められなければ話せる事ではない、また話したとても、かえってはね返るような事にもなりますから、まあ、丁度高橋さんが相手して下さっておったので、そのあと、私が受けてま、合楽理念を一くさり話して、ま結局その芯である成行を大切にするとか、土の信心とか、というような事をま、聞いてもらったんですね。
それで、本当に例えば合楽理念というのは、合楽教会の合楽ではなくて、神様と氏子があいよかけよで立ち行く世界なんだと。そういう立ち行く、いうならば合楽しおうて生まれてくるおかげ、いわゆる今教団で言われる生みなす信心という,いうならその根本原理なんだ。本当の金光教的、いわゆる「あいよかけよ」の助かりの根本原理なんだ、というふうな事を話させてもらった事でございました。
私は今朝から、御祈念を終わらせて頂いたら急にお腹が痛みだした。今もこうやって痛んでますから、こうやって一生懸命押さえてるわけなんですけれども、私ここ一週間あまり秘結、ま尾籠な話ですけどもしておりましたが、お腹が痛み出したらいわゆる、ま下痢です。それで若先生が御祈念してる間に、二回も便所に立たなければならない様な状態であった。神様にま、秘結をしておる事をお願いをする、だから神様が本当にお腹にたまっておる、いっぱいの物を出して下さろうとして、腹を痛ませてでも出してやろうという働きがある。
人間はいうなら勝手なもので、秘結をすれば秘結をしたで不平を思うね、下痢をすりゃ下痢をするで、またこんな大事な時間に何遍も立たなきゃならん、というような思いがするね、そこん処をです。私共が日頃「あいよかけよ」の信心、神様と私共との合楽しおうていく信心、それは人間生身の事ですから、なら別に悪い物を食べた分けでもなかったんですけども、昨日おそうに、もう前から冷蔵庫の中に入れてあったプリンがありました。で、それを食べて牛乳を頂いたのが悪かったのかなと、寝とる間は何ともなかった、御祈念が終わってから急にこうなんです。それで神様に、ま、お願いを致しますね。そういう、例えば人間は勝手なものでという事もこれは勝手なものでございましょう。秘結する時には出ますように、出すぎる時には困りますと言ったような、勝手なものなんだけれどもですね、いわゆる生身を持っとる人間の事ですから、何処にお粗末御無礼があるやら分からん。お食物の頂く具合というふうな事を思うてみますと、最近その、なら一切がおかげと言うのですから、昨日何か少々悪いものを頂いた。ひょっとしたら腐敗しとったかも知れない、冷蔵庫に入れとるから、と思うて安心して頂いたのにと思うのですけども、そういうものをこう頂かせて下さってからでもね、出させて下さろうとする働きを、やっぱり御礼を申し上げなければいけないね。
そんなわけで今日はもう朝から、ここ四十分大変苦しい処を通らせて頂いておるんですけれどもね、本当に人間は勝手なもの、けれども、その勝手な事が勝手に、本当にお願いが出来るような信心を日頃頂きたいと思うですね。こんな勝手な事お願いは出来ませんじゃなくて、その勝手な事でもお願いができれる信心を頂いておきたいね。今日は、ま、どうぞ「いろはにほへとちりぬるを」から、ただ今申しましたような事とこう合わせて、私共の人生というものが、儚いものであってはならない、何時もあいよかけよの働きの中に尊い人生を送りたい、と言ったような事を、ま聞いて頂いたんですけども、痛い、苦しまぎれに話しとるから、皆さんがよく纏めて頂かねばならんと思う。 どうぞ。
「色は匂えど散りほほを我が世誰れぞ常ならむ」